クラフト メルクリンとミニチュア模型制作の専門店

●サンスーシ庭園内を歩く
では、ここからサンスーシ庭園に入っていきます(写真19)。あ、でも、そこまっすぐいってすぐサンスーシーにすぐ行ってしまわないで。この門の脇をはいったところに、すばらしい教会があるんですよ(写真20)。この教会は平和教会(Friedens Kirche)といいます。回廊をはいっていくと(写真21)、ちいさないろとりどりの大理石で作られた教会が現れます。夏には定期的に、オルガンコンサートも行われます(写真22)
さあ、お待ちかねのサンスーシー宮殿が見えてきました
(写真23, 24)。歴史的には1745年から、二年間の工期を経て、建築家クノーベルスドルフがフリードリヒ大王のアイデアを大きく受入れサンスシーをつくりあげました。この建築はバロックのきらびやかな城からロココ風離宮への転機をなすもので、豪華さ、巨大な部屋、大きな階段の広間といったバロックの特徴が姿を消し、見せびらかすよりも、非常に繊細なインテリアを重視した小さな建物がつくられました。階段が扇状に下が広く上側が狭くなっているのは、それによって、奥行きをもたせ、さらに建物自体を立派に見せる視覚効果を狙ったものだそうです。斜面の緑色が象徴的ですが、これはぶどうといちじくの木が植えられているからです。葡萄畑の階段状の土止めの壁は太陽の光を最大限に利用するため球面状につくられています。さらに、この段々畑にはガラス戸が取り付けてあって、温室効果を狙っています。ドイツの寒い気候ではそもそも亜熱帯のいちじくは育たず、この果実は当時非常に高級なものとしてもてはやされました。このような装置を作って、王は食卓を豊かにしたのでしょう。フリードリヒ大王は40年間にわたりサンスシーを夏の離宮として利用し、サンスーシー (無憂宮) が示すように、牧歌的な雰囲気の中でくつろげる場所としました。1786年、フリードリッヒ大王のなきがらは、まずこの稿の最初に紹介した軍営教会に収められました。戦時中の混乱を避けるため、1991年までBurg Hoch Hechingenという礼拝堂に移され、その後、ドイツ東西統一後の1991年になってフリードリヒ大王のなきがらはやっとポツダムの地に帰ってきました。当初の遺言にしたがって、王はサンスーシ宮殿の脇に11匹のグレイハウンドとともに埋葬されました(王様には子供がなかった。后よりも犬が好きって、日本にも同じようなのがいたっけ)。200年越しの念願が、ようやくかなったというお話。王様も、まさか自分の遺言が共産主義の消失によってなされるとは夢にも思っていなかっただろうな。
写真19
(写真19)
写真20
(写真20)
写真21
(写真21)
写真22
(写真22)
写真23
(写真23)
写真24
(写真24)
写真25
(写真25)
写真26
(写真26)
さて、サンスーシー庭園内にはサンスーシー以外にもまだたくさんの建物があります。サンスーシの反対側にあるのがNeues Pareis(新宮殿)(写真25)。といっても、サンスーシからは直線距離でも1.5Kmもあります。この長さ 230mの建物は中央に丸屋根があり、その明り取りの塔に上には三人のグラツィア(優美の神)がプロイセンの王冠を支えています。ギリシャ彫刻がこの建物の上下をぐるりと取り囲んでいます。どれひとつとして同じ彫像はありません。この城は主に客のためのいわばホテルとして用いられたものでした。この向かいにあるのが、ドイツのハーバード(?)ポツダム大学(写真26)です。見た目からもわかるように、ここもかつてお城の一部でした。ここには城の召使いが住まい、また王様のキッチンが置かれました。ここから新宮殿にいるお客様のために食事がサービスされました。この大学はドイツ統一後1991年にできた、昨年創立10周年を迎えたばかりの新しい大学です。王様のキッチンに間借りしているためか、ここの学生食堂はドイツで表彰されたほどうまい!
写真27
(写真27)
写真28
(写真28)
さて、最後にお見せしたいのはヨーロッパからみたアジア像。これは中国茶館(Das chinesisch Teehaus)です(写真27)。18世紀当時の東洋ブームをあらわしたもので、建物の周りには音楽を奏でる中国人の金ぴかの彫像がずらり。みんなそれらしい楽器を持っていますが、よく観察してみるとそれはトライアングルだったり、さもなくば海のものとも山のものともつかない代物だったり(写真28)。着物も顔つきも、中国人の友人いわく「こんなのいない」と言われてしまうほどなのです。まあ、日ごろわたし達が日本でやっている「英国カントリー風の部屋をゲット」とか、「パリジェンヌのおしゃれの秘密を伝授」とか、「質実剛健の中世ドイツ」なんてのも結構怪しいものかもしれません。
今回のテーマは「混在と調和のポツダム」としました。プロイセンの古都としてのポツダム、ナチスドイツ戦時中のポツダム、戦後共産陣営に入ってからのポツダム、そして東西統一後のポツダムがさまざまに影響しあって現在の姿を作っていることに私はすごく興味があります。人間一世代分しか生きないし、過去のことはおばあちゃんからきく夢物語でいいはずなのに、どうしてその過去をまた現実、実践に持ち込もうとするのか、いつも不思議でしかたないのです。どうして、にせものに過ぎないレプリカの城を今になって再建したいのか(他にも修復しなければいけない一般家屋は五万とある)?どうして、王の遺言を、今になって忠実にかなえてあげるのか。わたしの稿から、その疑問がすこしでも読み取っていただければ幸いです。ポツダムの中にはもっともっとたくさんみどころがあるのですが、それはまたいつか稿を改めてということにしたいと思います。....
次号はコテコテの鉄道ネタをご提供します。Mit herzlichen Gruessen,Y. Miyake
(取材〜文章・写真提供/Y. Miyake)
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