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メルクリンとミニチュア模型制作の専門店


(5)戦争の生き証人。ユダヤ人を強制収容所に輸送した車両 1941年10月からドイツ国内のユダヤ人はドイツによって植民地化された国々のゲットーに強制輸送されました。ベルリンからは3年の間にアンハルターバーンホーフ駅やグルーネヴァルト駅からのべ184の列車で5万人ものユダヤ人がドイツから強制退去させられたといいます。しかしその際には、まだ旅客車輛が用いられていました。1942年1月ベルリンで行われたヴァンゼー会議においてナチスドイツは「ユダヤ人問題における最終解決」に合意します。この「最終解決」とは他でもなく、ヨーロッパに在住するおよそ一千百万人ものユダヤ人を根絶やしにする計画でした。ゲットーのユダヤ人は写真18のような貨物車で強制収容所に送られました。このわずか十平米ほどの空間に百人以上の人間がすしずめにされ、多くの人が収容所への到着を待たずに亡くなったと言います。私も撮影のためにこの小さな貨物車の中に入りましたが(内部写真19)えもいわれない恐怖で長くそこに立っていることができませんでした...
(写真18/強制収容所へユダヤ人を輸送した貨物車) (写真19/歴史を追体験する瞬間)
(写真18/強制収容所へユダヤ人を輸送した貨物車) (写真19/歴史を追体験する瞬間)
(写真20/戦後復興の立役者はナローと女性たちだった) (6)瓦礫からの復興に活躍したナロー 戦争に関連してもう一点、ナローをご紹介します。Hentschel & Sohnの1949年製、600mmゲージのRiesa 70PSです。通称は「廃墟からの車輛 (Truemmerwagen)」。通称からも察せられるように、この列車は空爆で焼け野原となった町から瓦礫を運び出すために用いられました。トラックが不足し、道路もことごとく破壊されてしまった町では、かろうじてのこった市電の線路などを利用したこの列車が活躍したのです。日本と同じく、敗戦直後は女性が中心となって復興活動をおこないました。
(写真20/戦後復興の立役者はナローと女性たちだった)
外に出ると、暗い機関車庫に長くいたせいか突然の陽光に目がくらみます(写真21)。辺り一帯は小鳥のさえずりと緑のざわめきが聞こえる以外静寂で満たされています。まるでここでは時が止まっているかのような...。機関車庫にはなくてはならない転車台、給水注、石炭入れ、線路も当時のままです(写真22、23)。現役を退いた機関車たちも、こんな恵まれた環境ならその誇りをけがされることなく安心して眠れそうだなと思いました(写真24)。
(写真21/静かにたたずむ機関車庫)
(写真21/静かにたたずむ機関車庫)
(写真22/転車台) (写真23/給水柱と石炭入れ)
(写真22/転車台) (写真23/給水柱と石炭入れ)
(写真24/幸せな列車たち)
おっ、次回のレポートはもうワールドカップの後かな?
だとしたら、せーのっ
IIch Wuesche Euch allen viel Spass bei WM 2006 !!
日本だけじゃなく、ドイツも応援すんだぞ〜!


では、次回のレポートでお会いしましょう。レポートに関するご意見、ご感想もお待ちしています。

Mit herzlichen Gruessen,Y. Miyake
(取材〜文章・写真/Y. Miyake CRAFT-Germany)
(写真24/幸せな列車たち)
(資料/ベルリン大空輸作戦)
1948年6月ソ連による西ベルリン地区の封鎖が行われ、西ベルリンに至る全ての道路、鉄道、河川が封鎖され、200万人の西側地区の市民が孤立しました。事実上の兵糧攻め状態。そのため米空軍はフランクフルトとヴィースバーデンから、英空軍はビュッケブルクから「ベルリン大空輸」作戦に取り組みました。C-47、C-54、C-74グローブマスターといった輸送機によって、1949年9月まで総計230万トン以上の食糧や燃料が空輸されました。15か月間の輸送飛行回数はのべ277,569回、毎日平均380機が飛んだといいます。輸送機はベルリン市内のテンペルホフ空港に向かって昼も夜も飛び続け、発着は1分おきにおこなわれました。
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